やはり先生ですよ。大学といったって先生ですよ。やはり先生の人格というものが、学生に移ってゆく。これを抜きにして、知識の切り売りだけが大学の教育では困る。自ら指導に立つ、それだけの心構えのない人が学校の先生になったとする。そうすると頭だけ売るわけですよ。知性優先の教育の仕方をするんじゃないか。それは何故かというと、割り切れるから、学生にも分かりやすいわけです。そういう先生がもてるわけだよ、学生には。結局それではいい学生が出るわけないですよ。

学生も大学を出てから、自ら泥をつかむという勇気がない。これではいい建築はできっこないですよ。頭のいい、学校の成績の良かった若い者が、自分でこうやって(スケッチなどしたがる)、あとは人にやらせてしまうんだから仕方がないと、(これが逆に出ると)どうなるか、私に見せないという傾向になって表れる(それで問題が後で起こる)。それは自分が泥をつかむという勇気がないからだと思う。(泥をつかむということ)それを今の学校は教えない。なぜなら先生が自ら(そういう方向に)指導に立たないから、頭だけ良くて、理屈は言えますよ。しかしそれでは良い学生は育ちません。

私は最近、マッキンレーで亡くなった植村直己さんに非常に感銘を受けました。植村さんは探検で、必ず生きて帰ると言っていたんですね。苦労し、すすんで泥をつかむけど、しかし必ず生きて帰るという冒険の精神ですね。これは建築にも通じます。

私の事務所でも、若い人は曲線の多いスケッチなど、これをものにしなさいと言うと、びっくりして敬遠する傾向にあります。それは何かというと、学校で自由に手を動かすという訓練はしないでしょう。知的訓練が主になっている。知的にものを追えば方向が分かり易いし、先生はそれで目的を達するわけですから、だから知的なものにだけ頼って、それから先に行く事は避けようとするのです。しかし最近、若い人も分かってきたらしく、そうした仕事をさせてくださいと言ってくるようになってね。すすんで泥をつかみ、しかも必ず生きて帰るというのは、いいものをつくるということにつながるのではないかな。