私は学生時代はなかなか反抗的で、ことに佐藤(功一)先生なんかに反抗して、様式的な問題が出てもその様式的な問題は少しもやらないで、同時日本へも伝わってきた新しい思潮のドイツのゼセッションに非常に共鳴し、そればかりやっていて先生からにらまれていたのですが、学校を出まして渡辺(節)先生のところへきて実際に世に出てくると様式というものの当時の社会における重要さをつくづく知らされましたね。様式はアメリカ風な実用的なものでした。様式風なものでないと世の中には通らないからそれをやれということで、はじめは嫌々ながらやっていましたけれども、やってゆくうちに興味が出てきたのです。様式のなかに隠されていた陰影だとか線だとかそれからプロポーションだとか、そういうものの美しさに興味を持ちはじめたのです。様式だけから出発した人はいまほとんど枯れてしまいましたね。やはり学生時代に反抗し、その後様式を学び、また現代にかえってきたということが、私には非常にプラスになっていると思います。

私、様式というのはあまり興味がないんですよ。私はなんでも同じように思いますね。ただ、度々申しますが、なるほど私は渡辺(節)先生のところで様式建築を習いましたね。しかし、そこから得たものは、要するに自分を肥やしただけの話で、線とか影、テクニックとかいうものを身につけただけの話で、様式とか現実に見るかたちは、私は虚構だと思います。そして自分が身につけた影だとか線だとか、それからテクニックだとかが本当の私の現実である。これだけで、あとは私流に言えば様式はないと思いますね。様式というのはフィクションだと思います。そういうふうに私はとっているし、またそういうふうに受け止めております。